〜八高音楽部・復活期 〜

連載第5回・復活への第一歩・初舞台"八高祭"

   

September,3,Tue/1996
今日はみんな泣いた、というより歌い終わって自然に涙が出てきた。
みんな笑顔だった。・・・今までの五ヶ月は決して無駄じゃなかった。
今までで一番の合唱だった。こんな合唱をしていきたいと思った。
八鹿混声さんから花束を頂きました。
支えて下さった人も聴きに来て下さいました。
復活としての第一歩を踏み出せた喜びで一杯でした。




兵庫県合唱祭は出場締め切りに間に合わず、夏のコンクールは出場断念。
そんな私達の初舞台は、なんと八高祭だったのです。しかも混声合唱までしてしまいました!
(そういえば、現役部員にはこの舞台を録音したMD渡したよね?)
けれど、初舞台を踏んだ部員は9名。
ただ歌いたくて集まった者と、復活への厳しい道を選んだ者--------------様々な葛藤。
しかし、その溝はどうしても埋められず、音楽部を去るものもいたのです。



さて、事の始まりは1996年5月30日。
掛け持ちをしながらも"音楽部"の名を残していて下さった三年生の先輩が音楽室を訪れ、
「もしかしたら三年生最後だから、学校祭の時に一緒に歌わしてもらうかもしれん」。
と言われたのです。当時の先輩は三年生ばかり、男子4名。
先輩と一緒に、しかも混声合唱が出来る!?・・・話は着々と進み、曲目は混声が
『聞こえる』『大地讃頌』『モーニング』、女声合唱は『矢車草』『時無草』の計5曲!
混声の伴奏には、"八高賛歌"の作詞をされた先輩が、女声の伴奏には51期助っ人Nさん。
さらに混声合唱には51期助っ人A氏も加わる事が決定。



目標が出来、夏休みは八高祭ただそれだけに向かって練習しました。


けれど浮かれてばかりはいられない。今度は舞台に立ち、人前で歌うのです。
合唱することの難しさに加え、指導者の不在・・・人に聴かせられる歌を!
クラス単位の学校祭の準備・模試・先輩方は受験・・・人数もろくに集まらない。
私と西川は、精神的に追い詰められていた。
本当に私達は多くの人に支えられて、今日までやってきた。お願いです。
今までお世話になった方々の顔と言葉をもう一回思い出して欲しい。
もう一度、私達の今までを振り返って、多くの方からもらった"気持ち"に、
私達の"気持ち"を乗せて、精一杯・一生懸命・思いきり楽しく・笑顔で・気遣いあって支えあって・・・
舞台に立とう!                      (八高祭前の日誌より)




そう思ってはいたが、当時の私にはそれさえプレッシャーに感じていた。
《私達を認めてもらえる歌をうたわなければ》
焦ってばかりの一ヶ月、結局満足のいく仕上がりにはなりませんでした。



けれど行き着いた先は・・・・・・・・・
 「歌う」ということは表現であり、相手の心を動かすこと。
 だからひっこんどったらあかん、前に出さないと・・・
 自分の気持ち、自分の声を前に出そう、自分に自信を持って!
 自分達の為に、音楽部を復活させる為に、そして先輩の為に・・・・・・・
技術ばかり追い求めていた。
いくらやっても上達しない自分、自信を失い、みんな小さくなっていた。
今の私達に必要なのは、音楽が好きだという気持ち。
技術はなくても、人の心に届く歌をうたおう!・・・それしかないと思った。


いよいよ八高祭当日。
今でもはっきり覚えています。
当時は全校生徒の前でのステージでした。
あの町民会館のステージが、とてつもなく大きく広く見えて、
私達は余計に小さく感じられました。
舞台袖で、9人全員で手をつなぎ輪になって、少しでも不安をなくそうと、
強くお互いの手を握り締めて、復活の第一歩=ステージへと向かったのです。

連載第6回に続く。

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