〜八高音楽部・復活期〜

連載第7回・〜新たなスタート〜



 1997年、春。私達は2年生なろうとしていました。
 そこに飛び込んできたビッグニュース!
 なんと、顧問の先生が変わられることになったのです。
 この一年、指導者の不在に悩んできた私達にとって、それだけで十分ビッグニュースでした。
 が、
が、実はもっとビッグニュースだったんです!
 新しく来られる先生がなんと
Y田大先生。私達の活動を認め、支援してくださり、
 かつては八高音楽部の基礎を作られた、その ご本人が帰って来られる。
 『私達にも立派な指導者が出来る!』私は興奮して眠れませんでした。
 音楽部の新たなスタートです。


 春休み、まず部室・研究室・音楽室の大改造が行われました。
 今までの埃をすべてふるい落とそうとするかのように。


 それからというもの、環境は確実に急激に変化していきました。私達の心の中も・・・
 大改造終了後、"響き"のある声作りを目標に発声を見直し、なんとコンクールの曲選びも始まりました。
 また声作りと共に"一人でも多く部員を増やすこと"も大きな目標でした。
 先生の計らいで、入学式に出席。校歌斉唱で音楽部の存在をアピール。
 アピール大作戦の始まりです。
 クラブ紹介ではなんと嘉門達夫さんの『小市民』を女声で歌いました(笑)。
 部活見学期間中には"歓迎音楽会"を開き、お菓子をばらまき、新入生との交流を深めました。
 ⇒今もなぜか部室にある、ライオンのペーパークラフトは、その時の宣伝ポスターに使ったモノ。
  私は今でも部室に入るたびに、彼(?)を見つめて微笑んでしまう(苦笑)。
 アピール作戦大成功!!!
 一年生はなんと12名が入部。
 更に嬉しい事に、理由はまちまちですが、新三年生の先輩も三名が加わって下さり、計23名の大所帯に。
 涙が出るほど嬉しかったよ。・・・復活がだんだん形になっていくようで・・・


 パート分けも行われ、1997年初舞台となる兵庫県合唱祭の曲も決まり、
 いよいよ本格的な練習がスタートしました。
 指導者が居るってこんなにも頼もしいものか、と私達は砂漠の大地が水を吸うように
 どんどん音楽を吸収していきました。

 1997.6.15(Sun) 兵庫県合唱祭出場。

 去年は出場さえ出来なかった、私達。でも、練習の成果は驚くべきものでした。
 ステージ上では緊張のあまり頭が真っ白でしたが、合唱祭のテープを聴いて、
 『私達上手くなっとる!』って素直に思えました。
 何より声質が全然変わっていました。ハーモニーが感じられました。
 それが大きな自信につながり、今までの私達にとってはとてつもなく遠い存在だった
 夏のコンクールで、5位入賞するという目標 を立てるまでに成長したのです。


 でもその自信が、いけなかったのかもしれません。
 あれほど渇望していた指導者には恵まれ、部員も増えた。上手くもなった。
 条件は整った。
 復活のゴールは此処じゃない、これからどれだけ成長できるか、だ。
 今まで応援してくださった方の、期待のこもった視線も感じていました。
 "もっともっと上手くならなきゃ・・・"
 部長という肩書きが、日に日に私の肩に重くのしかかってきました。
 そして、変化への戸惑いも、私達の心に微妙な影を落としていました。
 常に自分達で話し合い、決断し、行動してきた今までとは違い、全てが先生の指示に従う毎日。
 やるというより、やらされている のではないか。甘えがでてはいないか。 
 自問自答の日々。更に、私と西川は部活終了後も遅くまで先生と話し合い、
 帰宅が午後7時を過ぎることも少なくありませんでし た。帰宅後も、様々な音楽部の仕事があり、
 今まで以上に音楽部中心の毎日。
 ―――――正直、心身ともに極限状況にありました。


 結果、何も知らずに入った1年生に、きつく当たる。
 事実、一年生は少しずつ減っていきました。
 何とか分かってもらおうと、去年の日誌を回し話をしたりしましたが、
 それは私達の考えを押し付けているに過ぎなかったのでしょう。
 周りが見えなくなっていました。
 1997年、順風満帆なスタートを切ったかのようにみえた音楽部に、いつしか不協和音が起こっていました。

連載第8回に続く。

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